ロシア、ポーランドにおけるポグロム
東欧系のユダヤ人がユダヤ教に改宗し、カザール王国滅亡後、ロシアやポーランドに離散したカザール人なのか、それともイベリア半島や北アフリカから移り住んだ本来のユダヤ人の末裔なのかという問題はさておき、ロシアやポーランドにおけるポグロム(ロシアにおけるユダヤ人迫害)の状況と、ポグロムがユダヤ人社会に惹き起こした衝撃と動きについて整理してみます。
年月日 | 出来事 |
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1648年 | 「フリメツキーの乱」 ボフダン・フメリツキーのもとに集まったウクライナ・コサックが、ウクライナとポーランドの行く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪し、虐殺。その数50万人とされる。 |
1734年~1736年 | 「ハイマダキ」 「ハイマダキ」という名称の集団がユダヤ人を虐殺。フメリツキー以上にユダヤ人の虐殺に目標が置かれ、ロシア正教会が反ユダヤ宣伝を行う。 |
1871年 | 一番最初の「ポグロム(ロシアにおけるユダヤ人迫害)」が、ウクライナ南部、黒海北岸の都市オデッサで発生。 当時、オデッサはロシア・ユダヤ文化の中心地で、市民の3分の1がユダヤ人。 ※オデッサはもともとカザール王国があったカスピ海北岸にあり、ここからオデッサに定住していたユダヤ人がユダヤ教に改宗したカザール人であることが窺える。 |
1881年 | アレクサンドル2世暗殺。 犯行グループのなかにユダヤ人女性革命家がいたことから、民衆のあいだで「皇帝殺しのユダヤ人に制裁を加えるべきだ」という扇動が行われる。 皇帝暗殺事件を契機にポグロムが爆発的に波及。ほぼすべてのポグロムがウクライナ南部の定住地域、黒海北岸の旧カザール王国領と重なる地域に集中。 ※ここからも、ポグロムの対象がユダヤ教に改宗したカザール人であることが示唆される。10世紀、カザール王国が滅亡したとき、カザール王国はすでに100万人の人口を擁しており、それから約900年近く経過し、ロシアに併合されたかつてのカザール王国の領土内に、それだけ多くのカザール人がいたとしても、自然であるように思われる。 ポグロム加害者はウクライナの下層の農民と町民、被害者もユダヤ人の下層の町人と商人。 映画「屋根の上のバイオリン弾き」は、帝政ロシア時代末期のウクライナで生活していたユダヤ人がポグロムに遭遇する物語。 |
1882年 | 1881年のポグロム後、1882年5月3日、アレクサンドル3世治世のロシアにおいて種々の「反ユダヤ法」が成立。 「5月法」と呼ばれる「反ユダヤ法」の内容は、①町以外におけるユダヤ人の居住の禁止、②町以外におけるユダヤ人の商業活動、土地賃貸の禁止、③ユダヤ人の日曜日の商業活動の禁止。 |
1901年~1903年 | 相次ぐポグロムの影響で、ユダヤ人の制限居住地域(定住地域)は、革命運動の温床となる。 1901年~1903年に政治的理由で投獄された7791人のうち2269人がユダヤ人。1903年~1904年11月にかけて政治的理由で有罪判決を受けた者の54%がユダヤ人で、そのうち64%がユダヤ人女性。 |
1903年~1906年 | ポグロムが依然として黒海北岸に集中。 |
ロシア・ユダヤ人社会に生じた3つの動き
①ユダヤ人の大移住
年月日 | 出来事 |
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1881年~1910年 | 1881年にウクライナ南部(黒海北岸)で発生した一連のポグロムに衝撃を受け、300万人近くのユダヤ人がロシアを離れ、他国へ移住。その7割が、アメリカ合衆国を目指す。 |
②シオニズム運動の開始
年月日 | 出来事 |
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1881年 | 黒海北岸都市オデッサのユダヤ人医師レオン・ピンスケルが、オデッサ・ポグロムに遭遇したショックをもとに「自力解放」という本をドイツで出版。ユダヤ人は自分たちの国を作り、隷属状態から解放されるべきだと主張。パレスチナにユダヤ人の植民化を推し進めるインテリアや学生たちの「ヒバト・ツイオン」に加わり、指導的な役割を演じる。 |
1882年 | ユダヤ人の学生組織ビール―派により「ビール―運動」が開始。「ビールー」とは「ヤコブの家よ、来れ、行かん」(イザヤ書2章5節)のヘブライ語の頭文字の組み合わせ。「ビールー運動」は瞬く間にロシアのユダヤ人青年のあいだに伝播、拡大。 |
1882年~ | その後10年間にわたり、約1万人のユダヤ人青年がパレスチナに渡り、約40か所に定着。 |
1897年~ | ハンガリー生まれのユダヤ人テオドール・ヘルツルが「第1回シオニスト会議」を開催し「世界シオニスト機構」を設立。ヘルツルは近代シオニズムの父と呼ばれる。 |
1904年~1914年 | パレスチナへの移住運動は「アリヤー運動」と呼ばれ、1904年~1914年までの10年間に、約4万人の東欧系のユダヤ人がパレスチナに流入。 パレスチナの入植地は、1900年には22であったものが、1918年には47まで増大。 1909年には「キブツ」と呼ばれる集団農場が作り始められ、テルアビブが誕生。 |
③ロシア革命への参加
ロシアに残ったユダヤ人、特に青年の一部は、革命によって自由と権利を得ることがユダヤ人問題の解決だとして、革命運動に積極的に参加。ロシア革命期、トロツキー、シノビエフ、カーメネエフ、ラデックなど、革命指導者の大半がユダヤ人。
年月日 | 出来事 |
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1887年 | ロシア国内で520万人、ロシアの人口の約4%にあたるユダヤ人が生活。 |
1915年 | ロシアの反ユダヤ政策である「定住地域」の政策を廃止。 その一方で、ポーランド国民民主党やロシア軍の反ユダヤグループは、ユダヤ人がオーストリア・ハンガリー帝国のためにスパイ活動を行っていると扇動。その結果、様々な場所でポグロムが発生。 |
1917年 | 1917年2月から3月にかけて革命が成功したことで、ユダヤ人に課せられた一切の制限の廃止。ユダヤ人は漸くロシア人と平等な権利を有する市民となる。 |
1920年 | イギリスで刊行された「ユニティ・オブ・ロシア」は、ロシア革命で政権を握った政治組織の中枢に、多くのユダヤ人がいることを報道。 イギリスの新聞「モーニング・ポスト」によれば、ロシア革命直後に掲載された革命メンバー一覧表のなかの50人中44人がユダヤ人。 チャーチルはもともと親ユダヤ主義者ではあったが、この時期、「共産主義は文明の転覆のための世界的な革命的陰謀であり、この陰謀は無神論的国際ユダヤ人によって導かれた」という記事を書いた。 |
ロシア革命後のソ連のユダヤ人
ロシア革命後、ロシア国内のユダヤ人問題はうまく行っていたが、スターリンが実権を握るようになると、状況が急変。多数のユダヤ人が階級の敵であると宣言され、選挙権、高等教育を受ける権利、医療を受ける権利、食料切符を受ける権利を失った。
スターリンは党指導部での権力闘争のなかで、ボルシェヴィキの中からユダヤ的要素を排除するために、意図的に反ユダヤ的スローガンを掲げた。スターリニズムにより1930年代の粛清の犠牲となって倒れたユダヤ人は数え切れなかったとされています。