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チューリップ・バブル

 歴史上有名なバブルは、チューリップ・バブル、ミシシッピ計画、南海泡沫事件だそうです。
 なかでもオランダのチューリップ・バブルは、対象が単なるチューリップの球根だっただけに、バブルの機微が顕わになった典型的なケースのように思われます。

 以下、ウィキペディアからの抜粋と引用になります。

 チューリップ・バブルは、オランダ黄金時代のネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりだったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然下降した期間を指すとされています。
 チューリップ・バブルのピーク時であった1637年3月には、1個当たり、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根も複数存在したそうです。
 1619年から1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のためにヨーロッパ全体で行われた貨幣の変造「Kipper-und Wipperzeit」にも、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘する研究者がいますが、チューリップ・バブルは記録に残された最初の投機バブル(またはバブル経済)であると一般に考えられているそうです。
 1637年の出来事は、1841年に英国のジャーナリスト、チャールズ・マッケイによって著された『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(邦題:狂気とバブル―なぜ人は集団になると愚行に走るのか)』において、広く知られるようになったとされています。
 マッケイによれば、ある時には、「Semper Augustus」(センペル・アウグストゥス、日本語訳:無窮の皇帝)の球根1個に対し、12エーカー(5ヘクタール)の土地との交換が申し出られたそうです。マッケイは、このような投資家の多くはチューリップ価格の下落により破産し、オランダの商業は大打撃を受けたと主張していますが、現代の研究者の多くは、チューリップに対する熱狂はマッケイが記載したほど異常なものではなく、チューリップ球根に関しバブルが実際に発生したことを証明するのに十分なデータは存在しないと主張しているようです。

1637年のオランダのカタログ『Verzameling van een Meenigte Tulipaanen』に記載された「Viceroy(viseroij)」の名で知られているチューリップ。

ヤン・ブリューゲルによる『A Satire of Tulip Mania』(1640年)は、投資家を、現代的な上流階級の服装を身に着けた頭脳のない猿に描いている。

 チューリップは、他の植物にはない鮮烈な色味あふれる花弁を持ち、当時ヨーロッパにおいて知られていたどの花とも異なっていたそうです。
 比類ないステータスシンボルとしてチューリップが登場した時期は、オランダ黄金時代の幕開けと重なり、新たに独立を果たしたオランダが貿易によって富を増やしていた時代で、チューリップは誰もが欲しがる贅沢品となり、品種が豊富になったそうです。
 花弁の複雑な線や炎のような形の縞模様による多色の効果は、鮮やかで目を見張るものであり、このような効果を有し、多色のチューリップをより異国情緒ある植物に見せるような球根は大人気となったそうです。
 今日では、このような効果は、チューリップのみに感染するモザイク病であり、1つの花弁の色を2つ以上に分けて(break)しまう「Tulip breaking virus(チューリップモザイクウイルス)」に球根が感染したため生じるものであることが知られているそうです。
 栽培家らは、新品種に対し高貴な品種名を付け、初期の新品種はAdmirael(提督)という接頭辞に、しばしば栽培家の名前を組み合わせたものであったとされています。

チューリップ・バブルの間に取引された最も高価なチューリップとして有名であるSemper Augustus(センペル・アウグストゥス)の水彩画(17世紀)。

 北半球では、チューリップは4月または5月に約1週間にわたって咲きますが、北半球におけるチューリップの休眠期である6月から9月にかけての間に球根を収穫し運搬することができるため、(スポット市場における)球根の現物取引は、この期間に行われていたそうです。ほかの期間は、花屋やチューリップ投資家らは、期間の終わりにチューリップ球根を購入できるよう、公証人の前で契約書に署名をしていた(先物取引)そうです。
 オランダ人は近代の金融取引の方法を開発し、耐久消費財としてのチューリップ球根の市場を形成しましたが、1610年の政令により空売りは禁止され、1621年、1630年および1636年にも同じ命令が出され規制が強化されたそうです。空売りを行っても訴追されることはありませんでしたが、契約は執行不能なものとされたそうです。

 チューリップの人気が高まったため、職業栽培家はウイルスに感染した球根に対し一層高い価格を支払うようになり、価格は上昇し続けたそうです。1634年までに、フランスにおいても需要が高まったこともあり、投機のために投資家が チューリップ市場での取引を開始したそうです。珍しい球根の価格は1636年を通じて上昇し続けましたが、11月までには、単色の一般的なチューリップ球根の価格までも上がり始め、すぐにチューリップ球根であれば何であっても数百ギルダーで取引されるようになったそうです。
 この年に、オランダでは、季節の終わりに球根を売り買いするための公式な一種の先物市場が形成され、投資家らは、居酒屋の「college」で会い、球根を買う場合には取引価格の2.5%から取引あたり3ギルダーを上限とする「ワイン代」を支払う必要があったとされています。売り手も買い手も、当初証拠金や変動証拠金を支払う必要はなく、取引も取引所ではなく個人の相対取引で行われていたそうです。オランダ人は、球根の引き渡しが実際には行われないことから、チューリップ球根取引を「windhandel(風の取引)」と呼んでいたそうです。

『Wagon of Fools(愚か者の車)』(ヘンドリック・ヘリッツ・ポット画、1637年)。織機を放棄したハールレムの織物工らが車の後ろをついて歩いている。

 1636年までに、チューリップ球根はオランダにとって、ジン、ニシン、チーズに次いで4番目に取引高の大きな輸出品となったそうです。チューリップ球根の価格は、球根を実際に見たこともない投資家らによる先物取引での投機のために跳ね上がったということです。多くの者が、一夜のうちに多額の財産を築いたり失ったりしたとされています。
 チューリップ・バブルは1636年から1637年の冬にピークを迎え、この時には1日に10回も取引された球根もあるほどだそうです。しかし、これらの契約を履行するための球根の引き渡しは行われなかったということです。1637年2月、チューリップ球根の価格が急落し、チューリップの貿易が停止したためとされています。
 価格の急落はまずハールレムで起こり、買い手が定期的な球根の取引に現れなくなったそうです。これは、ハールレムがペストの大流行のさなかにあったことが原因である可能性があるとされています。
 ペストの流行により、投機を急拡大させるような宿命論的なリスク選好文化が形成されたかもしれませんが、他方それはバブルの崩壊の原因ともなった可能性があるとされています。

アール・トンプソン(Earl Thompson)によって作成された、チューリップ球根の取引契約における、標準化された価格指数のグラフ。

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